ファシリテーターのジレンマ

プロセスワークを学ぶ場をつくりたいと思ったワケ

ファシリテーターとしてのジレンマ

 会社員時代から、私はファシリテーターとして場に関わることが多かった。プロジェクトや、部門、会社全体で場を開き、様々な話し合いの場をファシリテートしてきた。人と人がお互いに語ることを聴き合い、理解し合うのをサポートしてきたつもりだ。実際、話し合いを可視化したり、交通整理をしながら、成果へとつないできた。それまで語られることのなかったことが言葉を得て、そこから何等かのアウトプットがつくられ、実行へと移されたことも多くある。そんなときは、ファシリテーションを学び実践してきてよかったと素直に嬉しかった。

 ところが間もなく、問題はそうシンプルではないな、と感じ始める。確かに人々が話し合い、筋道とおして結論を出しているのだけれど、実際にはものごとが動いていかなかったり、すっかり忘れ去られる場面に何度も出会って、ひそかにガッカリしたりした。

 教科書どおりプロセスをデザインしプロセスに関わり、ファシリテートしても、うまく機能するときとそうではないときがある。一見、プロセスがスムースに運んだように見えても、必ずしもそれが成果につながらないというジレンマ・・・。この違いはいったいどこから来ているのか?何かが足りない、何かを見落としている、そんな思いを抱くようになった。

「語られない声」「聴かれていない声」

 その時の私にわかっていたことは、そこで語られたことがすべてではない、という当たり前のこと。そこには多くの「語られない声」があった。そして「聴かれていない声」があったのだと思う。

 ファシリテーターが「発言を促す」とは、いったいどこまで、何をどうすることなのか。場にあがる一部の人の声だけ、出てきやすい声だけではなく、語られない声を聴くにはどうしたらいいのだろう?この問いは長らく私の中で息をひそめるように存在していた。会議の場とは別の場所で語られる言葉たち。顧みられることない結論。自らの発言したはずの言葉を、自ら否定する人たち。自分の真実に気づかないまま語っている声たち。そんな場面に幾度も出会って、私はこの問いに取り組まずにはいられなくなった。

 私たちは、語られない声、聴かれていない声、まだ言葉にすらなっていない声を聴く必要がある。私たちに何かできることがあるんだろうか?

プロセスワークの世界観

 そんな時に、プロセスワークに出会った。プロセスワークは、「現実」というものを3つのレベルで見ている。見たり聞いたりできる誰もが確認できる現実のほかに、それぞれの内面にある夢のような現実や言葉にもなっていな現実があるという。また、日常的に意識できている「自分」のほかに、「自分ではない」と周辺化している自分もあるという。一人ひとりの内側には多様性な自分がいて、中には社会システムから受け取った自分もいるという。そして、世界と自分、他者と自分がどんな風につながっているのかを示してくれた。

 このプロセスワークの世界観を知って、私はこのアイディアにワクワクした。今まで見ていなかったもの観て、聴いてこなかった声を聴くためのヒントを得て希望がわいた。まるで小さな双眼鏡で見ていた世界が、360度の視界で見る可能性に開かれたみたいだった。

「聴かれていない私の声」~私自身をも含んでいくこと

 新しい視野で「聴かれていない声」を聴くファシリテーションという発想は、とても素晴らしいもののように感じる。実際にそう思いながら、もっとプロセスワークを学ぼうと私ははり切っていた。でも、学びを進めていく中で、私はもっとシンプルで大切なことに気づいてしまう。

 学び続ける中で、自分の中の多様性を受け入れ、自分ですら聴いていなかった自分の声を認めていく経験を繰り返ししていく。すると、自分がファシリテーターとして丸ごとの自分で場に立っていなかったことに気づき始める。まるで、「ファシリテーターという着ぐるみを着た自分」がそこに立っているみたいだとさえ感じた。

 私の中で起きてくる感情や聴きたくない声、まだ言葉にならない未知なものを受け入れていくと、場にどんなことが起きるだろう?私自身も場に含んでいくとどんな変化が起きるだろう?自分も場に含める、そんな態度で場に立つことは、私にとってとても難しいことだった。ディープデモクラシー・ファシリテーション合宿で、私はそれと格闘することになった。自分の中の受け入れたくない、見ようとしていないものを知ろうとした。講師であるDayaや合宿に参加している仲間たちがロールモデルを示してくれた。私の話を聴いてもらったし、フィードバックももらった。そしてやっと、自分の中のあらゆる声を受け入れていくことは、場にあるあらゆる感情や声、未知なるものにオープンになっていくことなんだと体感する。ここまできて、私自身がファシリテーターとして場の中に含まれていなかったことを実感した。

札幌でプロセスワークを学ぶ場をつくるワケ

 そこからもう一度、なぜ私が「札幌でプロセスワークを学ぶ場をつくっていきたい」と思ったのかを考えてみた。そしてハタと気づく。聴いてもらいたかったのは、私の声だった。理解してほしかったのは私だった。仕事の中で、人間関係の中で、たくさんの「聴かれていない私の声」があった。「ないことにしていた声」があった。声に出しても「届かなかった声」もあった。その切実な願いが私の出発点だったと今さらながら気づく。私自身を含んでいくことは、私と世界の関係を変えていく。私と場の関係を変えていくだろう。

 だからこそ、一緒に学ぶ仲間が必要なのだ。「聴かれていない私の声」を聴いてもらう体験。「ないことにしていた声」に気づいて、勇気を出して声にしていく体験。そして、それを聴いていく体験。自分自身を含んでいく、お互いを含んでいく体験を重ねながら、人間関係や社会の中の葛藤に向かう勇気を培っていく仲間が必要なんだと思う。

 世界には声が溢れている。私の声も、誰かの声も、そこに「ある」。それらの声を私は聴いて、含めていきたい。なぜなら「聴かれていない声」の痛みを少なからず私も知っているから。「ないことにされた声」によって、どれだけ力が奪われるのか、想像することができるから。「ある」ものはあると認めていくこと。しかも、私一人ではなく、思いを共有できる仲間と一緒に。

 札幌でプロセスワークを継続的に学ぶ場をつくっていきます。あなたも、この体験を一緒に重ねていきませんか。

※札幌でのプロセスワーク講座の情報はコチラ

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