ディープデモクラシー・ファシリテーショントレーニング合宿を終えて
合宿から帰って来て2日。やっと夢の世界からグラウンディングして、自分に起きたことを噛み締めている。結局、私は何を持ち帰ったのか振り返ってみる。
*世界に開かれた私*
自分が世界にどう向き合っているのか。世界に対して開かれているのか、閉じているのか。場を信頼しているのか、いないのか。それは、自分が自分の内側に開かれているかどうかにかかっているのだと思う。9日間の合宿での一番の収穫は、私自身が自分の中の多様性を受け入れられたことだった。
合宿に参加しているみんなが、まるで様々な植物が花開くように変わっていく様子を見て、自分が固く閉じたままだということに私は気づいていた。プロセスを信頼し、場に自分を差し出し、可能性に対してオープンな姿勢は、わかり合えなさや葛藤越えていく。対照的に私自身は、しっかり学ばなくては、と思えば思うほど空回りをしていた。
7日目になっても硬さが拭えない自分に焦りを感じていた。変化のきっかけは、仲間に声をかけて話を聴いてもらったこと。そして自然の中で歌を歌い、自分の内側を声にして響かせたこと。隠れていた感情と真実が溢れ出した。そう。私は自分の内側にある声を「ない」ことにしていた。 とても大きな悲しみを、ないものにしていた。乗り越えたと思いたかった。そうして、ただそこにいる自分を許していなかった。それを許した途端、強固な殻が解けて世界が流れ込んできた。自分の多様性に開かれた私は、世界や他者とつながれるようになった。
*私らしさというアーカイブ*
合宿では、自分らしいファシリテーションスタイルを知ることができた。”私らしさ”とは、私自身の人生そのもののアーカイブだ。
人生の中で本当にいろんなことに出会った。自分を投げ出して誰かのために闘い、助けようと働き続けた。内臓がよじれるような悔しさや怒りにも苦しんだ。かけがえのない人の最期に立ち会い、絶望と希望の両方を抱きしめた。それら全てで、今の私ができている。それらが今の私らしさを創ってきた。
私らしいファシリテーションスタイルは、そんな積み重ねから紡がれていると知る。自分以外の誰かみたいなファシリテーターになるのではない。自分自身であることが、ギフトになるのだ。
*他者のリアリティを知る、世界とつながる*
合宿の期間を通して、様々な聴かれてこなかった声を聴いた。毎日起きるホットスポット(葛藤)をとおして、またグループプロセスをとおして、見えていなかった他者のリアリティに触れる経験を重ねた。その向こうにある社会構造を知ることができた。聴かれてこなかった声を聴くことで、社会問題が私にとってもリアルなものとなっていった。
合宿を通じて、セクシャルマイノリティを取り巻く社会の状況や、男性ジェンダーと女性ジェンダーの間にあるギャップ、日本に住む外国籍の方の置かれてる状況、学校の先生の働く環境やその学校で周辺化された子供たちの声など、様々な社会課題をリアルさを伴って知ることができた。た。他者のリアリティ知ることのパワー。そこから世界とつながり、アイディアが生まれ、行動が始まるのだと実感した。思う。
*助けを求める*
自分の中の多様な声の存在を認めて、開かれた自分になると、その質から自分の無防備さを表現し、世界とつながっていけるようになる。 とにかく、私は助けを求めることが苦手だ。大概のことは我慢と努力で自分でまかなう。ずっとそうしてきたし、そう出来るように自分を励ましてきた。でもそれでは世界とつながれない。世界を変えていくことはできない。だから、やっとの思いで最終日のチェックアウトで仲間に助けを求めた。しかも泣きながら。ただそこにある自分のままで。
いったいそのことにどんな意味があるのか、今ならわかる。助けを求められない人が、声にならない声を聴けるだろうか。聴かれていない声に気づけるだろうか。私が周辺化した声は、他の誰かの声をも周辺化するだろう。。。。
*あらゆる声を聴く、含める*
合宿をとおして24時間ずっと、あらゆる声を聴き、含めていくチャレンジをしてきた。それは、そうすべき、というエネルギーからのチャレンジではない。あるものはある。あることに気づいて耳を傾けると、それは自分の中にもあると気づく。
ファシリテーターが場を信頼し、耳を傾けようとするのは、そういう役割だからではない。聴こうとしているその声は、自分の声でもあるからだ。この感覚を伝えるのは、とても難しい。ディープデモクラシー・ファシリテーションを学んで、こう思うのだ。「世界は私。私は世界」。
だから、私が変わると世界が変わる。まず、私から変わっていこう。