息子との関係をつないだ共感
私の人生の中で人との関係で悩んだことの1つに、不登校の息子との関係があった。まるでノブのないドアのように、わかり合うための手がかりがない日々が続いていた。そんな中、私たち親子の関係をつないだのは、NVC(非暴力コミュニケーション)だった。一旦自分のジャッジを脇に置いて、息子が心の底から願っていること(ニーズ)を聴こうとすること。そのあり方と聴き方が、親子の間をつなぎ、お互いを理解していく道を開いてくれた。息子が自分の願いを言葉にできるようになり、私がそれをただ聴くことができるようになるにつれ、彼が自分らしく自分を生き始めることができるようになった。そして自然に、彼は人生の選択をし、その道を歩き始めた。
NVCは私たち親子の関係や周りの人との関係を豊かにしてくれた。そして、多くの人と出会い、共感し合い、他者との関わりの可能性を開いてくれた。
その人と本当につながりたいのか
とはいえ、それで全てがハッピーになったわけでもない。関係性の中には、心地よいものばかりがあるわけではない。どうしても衝突してしまう関係もある。また、自分が意識していなくとも、ふいに相手から攻撃されたり拒絶されたりすることもある。逆に、自分自身が相手を受け入れがたく感じ、無意識にキツくあたってしまったりすることだってある。そんなときでも、私は共感的にあろう、ありたい、と思うものの、なかなかうまくいかない。どこか自分の中には、「共感的であらねば」「非暴力であるべき」という声が自分の中にあったのだと思う。
そこに、シンプルな問いが生まれる。「私はその人と本当につながりたいのか?」たとえ自分と対立している人であっても、関係性を育み、理解し合える方向に向かっていく意図が持てるのか、正直に考えてみた。確かに共感的にあろう、ありたい、と願うものの、総論賛成、各論反対の自分がいることに気づいてしまった。私と息子との間では、我が子であるからこそ、望んで共感的にあろうと努力できたのだろう。では、これが自分にとって理解しがたい相手だったら?どこか遠くに住む人々だったら?プーチンだったら?私たちがそれと知らずに疎外しているどこかの誰かだったら?同じようにできるだろうか。
ここにきて私は、他者とのつながりを求める体感覚を、もっと自分自身の身体にしみこませる必要があると思うようになった。それが正しいからではなく、それが理想だからでもなく、心底、他者とつながりたいと願う源を得たいと思った。少なくとも、NVCの創始者であるマーシャル・B・ローゼンバーグにはそれがあったに違いない。自ら差別される側のマイノリティでありながら、様々な紛争の場で共感的な関わりで世界を変えていこうとしていたのだから・・・。そこで私は、つながりたいと願う源をさらに探求し続けることとなった。
他者の中の私、私の中の他者。世界の中の私、私の中の世界。
その探求の過程で出会ったのがプロセスワークだった。最初の衝撃の体験は、昨日のブログ「プロセスワークとの出会い」に書いたとおりだ。私が実感を持って体験したのは、わからないと思っていた他者の中にあるものが、自分の中にもあるということ。そして、自分の中にあったものが、他者の中にもあるということだった。それは、「あなたは私」「私はあなた」と言ってもいいくらいのものだった。
さらに学びを深めていくと、世界の中で起きていることは、私の中でも起きていると知る。そして、私の中に世界があったと気づいた。たとえば、社会の中で聴かれていない女性の声は、私の中にもあったし、社会の中にある差別の構造は、私自身の中にも内在化されていた。そして、内在化された声は、私の行動を不自由にさせていた。そのことを理解すると、もはや社会で起きていることは私と無関係ではなくなる。それは、私のことでもあるのだ。
つながりは既にそこにある
つながりたいと願う源を探していたはずだったが、実はつながりは既にそこにあったのだ。目の前の相手は、100%他者というわけではない。同時に、私の中にあるものは、100%私だけのものでもないわけだ。少しずつ学び続けて5年。その感覚は益々確かになってきている。
私の中に生まれたシンプルな問い「私はその人と本当につながりたいのか?」に対して、今の私はどう答えるだろうか。きっとこう答えるだろう。「つながりは既にある。その葛藤の中に、何か大切なことがある」と。。だから私は相手を知りたいと思う。そこに、私の見ていなかった私がいるから。そして、私のことも理解してほしいと思う。私の中にも相手がいると思うから。そうして世界を共に理解していく可能性があると思うから。
「開かれた私」を育む
こうして、私は少しずつ他者や世界に開かれていく。そんな自分を育んでいくプロセスはまだまだ続くだろう。私がNVCをより深く、真に生きていくためにも。
どうか私が「共感という正解」のために、自分の中の声をないことにしませんように。また「自分という要塞」に閉じこもることなく、自分の中に起きていることや痛みをホールドしながらも、相手の中にあることを大切に聴くことができますように。日々、他者や世界との出会いの驚きを味わい、葛藤や思いがけない出来事からプロセスを信頼し知恵を得ていけますように。
「つながる」の源は、そこにある。自分や相手の中に。相手や世界との葛藤の中に。私たちはこの世界で分かちがたくつながっている。プロセスはそのことを知らせてくれる。私たちは、ただそれらに開かれていくだけなのだと思う。
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