片耳が聞こえない
片方の耳が聞こえないって、どんな経験なのか?講座が終わったあと、古民家をリノベーションしたカフェで、私たちはそんなことを語っていた。そこには、普段は語ることのない不安や不便さを聴いてもらえる安心感があった。
この日は偶然にも、右耳が聴こえない参加者が私も含め3人いた。両耳が聞こえる人にはわかりにくいと思うが、右耳が聴こえない人間にとって右端に場所を確保することは結構重要だ。なぜなら、左耳からしか情報を受け取れないから。もし左端に座ってしまうと、ほとんどの会話は聞こえなくなる。もしくは、不自然に首をひねって左耳で聴く努力をしなくてはならない。ベストポジションは2席だけ。右耳が聴こえない人が3人。。カフェの個室で誰がどこに座るかを決めるまで、しばし時間がかかった。
声に出して伝えること、声を受け取ること
同じ不便を抱えながら、右耳が聞こえない事実をどう受け止めているかは人それぞれで多様だ。そのことをすんなり口に出して助けを求められる人と、なかなか声に出すことができない人がいる。私は大人になってから、病気のため右耳の聴力がほとんどなくなった。だからなのか、比較的すんなりそのことを伝えることができる。それでも、こちらの事情に合わせてもらうよう伝えるのは、なかなか勇気のいることだ。過去に職場の人とお酒を飲みに行ったとき、ざわつくお店の中で活舌の悪い偉い人の話が聞き取れず、2回聞き返して3回目に諦めたことがある。そんなことは数えきれないほど経験してきた。
片耳が聞こえないってどんな経験なのか?この日、そんな声を聴いてもらえるスペースが与えられ、恐る恐る一人が語り出す。ファシリテートするときには、ちゃんと聞き取れるかとても緊張する。聞こえる場所に座れるか、心配になる。それでいて、聞こえないとは言わない、言えない気持ちがあるのだという。他の人はどうなの?と訊かれ、私も話し出した。…が、自分の話し声が聞こえない。聞こえる席に座ったはずのに、聞こえない。ふと後ろに目をやると、BGMを流している立派なスピーカーが設置されている。片耳の私には、左耳に届くBGMがどうにも邪魔で会話ができないほどだった。
「この音楽が邪魔で聞こえない」と私は言葉にした。心の中でボリューム下げてのしい、と思っていた。「お店の人に頼んできたら?」すぐに講師のDayaが促してくれた。右耳の聞こえないもう一人の人が、え?と驚いている様子が見えた。私は急いでカフェの店員さんのいる所に走っていきお願いした。「私たちの中に、片耳の聞こえない人が3人いるんです。このBGMのボリュームだと会話がよく聞こえないので、もう少しボリュームを下げてくれませんか?」
席に戻ると、スピーカーから流れてくる音楽が小さくなった。そして、私の左耳からみんなの会話がクリアに入ってきた。身体が緩んでホッとする感覚…。単に聞こえたからだけではない、大げさに言えば、世界が片耳の私たちを受け入れてくれたという安堵だった。声に出して伝え、リクエストできた。しかも、その声が聴かれたのだ。こんなことも可能なんだ…自分が思っていた以上に、そのインパクトは大きかった。片耳仲間の一人は、うっすらと涙をにじませていた。
世界を変えるファシリテーション
安全な場で誰かが声をあげ、聴かれてこなかった声が「ある」ことにされ「ここに声があるよ」とフレームしてもらえたことで、世界が変わった。「片耳が聞こえないことがどういうことか」を語ることを促し、「音楽が邪魔で聞こえない」という声に対して「お店の人に頼んできたら?」と促したこと。それが現実を変えるきっかけとなった。
とても小さなことのようで、決して小さなことではないと思う。賑やかなお店でみんなと話をする、ただこれだけのことが私たち3人には難しい。マジョリティにとっての当たり前の中で、小さな不便や困難を繰り返し体験してきたことが、ちゃんと「ある」ことにされたのだ。そして、エンパワーされて状況を変えていく行動が促された。プロセスが促進されたのだ。
プロセス指向ファシリテーション講座の後に経験したこの出来事で、その日学んだことを私たちは身をもって体感することができた。そして、この体感はこれから私たちがファシリテートするときのパワーとなっていくだろう。これこそ、世界を変えるファシリテーションではないだろうか。どんな小さな声にもスペースをつくり、含めていく。お互いから学び、世界への理解を広げ、パワーを分かち合う。こういうファシリテーションは、日常のいたるところで必要とされている。
「自分の中のファシリテーターを育てる」講座、7月も開催します。