「やりたい人」と「やりたくない人」

~なぜかやらない私の考察

 あなたには、「やりたい」と言いながら「できていない」ことがあるだろうか?もちろん私にも、そういうことがいくつかある。

 まるで念仏のように、「やりたいんだよねぇ」と周囲に繰り返し言いながら、何十年とやっていないことがある。自分が情熱を持って始めたことのはずなのに、身動きを取れずになぜか固まったかのようになってしまう。そして「できていない」自分を、意志が弱いだめなやつだと非難したり、挫折して凹んだりする。

 だけど自分の中をよくよく観察すると、やりたいと言っているものの実際には「できない」感覚があることに気がつく。やろうとする意気込みとは反対に、自分の力が底から抜けていくような感覚や、金縛りにあったような、自分を固まらせてしまう力のようなものがある。そんな弱気が出てくると、人はそんな自分を否定して、「ダメダメ、そんな風に考えては。やりたいことをやるのよ!」と自分にムチを打つ。結果として、アクセルを全開に踏みながらブレーキを踏んでいるような状態で、焦燥感と無力感にさいなまれて消耗していく。

 そんなことを繰り返しながら最近気づいてしまったことは、そこに「やりたくない人」がいるということだ。ずっと、「やりたくない人」がいることを認めてこなかった。「やりたくない人」はいてはいけないから、その人の声を無視し続けてきた。「やりたくない人」には、それなりの言い分がある。できないのは、意志が弱いからでも、だめなやつだからでもない。「やらない意志」があるからなのだ。

 その声に耳を傾けてみると、自分がこれまで聴いてこなかった大事なことが語られている。自分の中にずっと閉じ込めていた不安や痛み、もっと大切にしたい何かがそこにあるよ、と知らせている。そう、それほど大事なことを無視して、ひたすら前に進もうとする自分に何かを訴えている。動けないことをとおして、教えてくれている。

 私はここ8ヶ月ほど、「やりたくない人」と繰り返し出会ってきた。ガンバレという自分があまりにも強くて、ムチは打つものの、動かない自分にほとほと愛想が尽きそうだった。身体と意志がバラバラになったようないびつな感覚。。そして今、「やりたい人」と「やりたくない人」の両方がいることを受け入れたら、やっとその「やりたくない人」のメッセージがわかってきたように思う。子供の頃から抱えている大事な信念を守りたがっている。その感覚は身体のすみずみまでしみ込んでいて、「やりたい人」が前に進もうとするたびに止めるのだ。

 プロセスワークでは、自分が未知のものや不安を抱いているものに向かうことを止めるものを、エッジと呼んでいる。普段、私たちはそのエッジに意識を向けることはあまりない。でも、その向こう側には、今まで自分が見てこなかった大事な知恵が待っている。日常の中のプロセスワークは面白い。単なる「怠けグセ」「先送りグセ」と批判していた自分の声は、私の気づきを促し意識を広げていってくれる。