ファシリテーション再考

ファシリテーターは、未知なものに開かれている

 ファシリテーションというものを意識的に実践し始めてから、かれこれ十数年になる。その間、ファシリテーションを学び続け、様々な場を経験し、失敗や後悔も味わってきた。そして、数年前から自身のファシリテーションスタイルをフルモデルチェンジする必要があるな、と感じ始めた。

語られなかった声

 こんなことがあった。ある組織の組織横断活動のため、話し合いのプロセスをデザインし、複数回の話し合いを重ねて、ほぼ全員が賛成できる活動目標を決定した。決めた目標は、会社の方針にも合致しており、メンバーも取り組むべき課題だと納得しているようだった。ほどなく活動がスタートし定期的にミーティングで活動の進捗を確認するのだが、どうにも結果は思わしくない。都度改善方法が話し合われ、どうしたら活動が進むのかが検討されていた。次第に活動への意気込みはしぼんでいき、ミーティングも停滞していった。年度も終わりに近づいたある日のミーティングで、一人のメンバーがこう言い出した。「実は、最初から実現不可能だと感じていた」。すると、複数のメンバーも「自分もそう思っていた」と声を発した。
 さて、どうしてこんなことが起きるのだろう。話し合いのもっと早い段階で、なぜこの声が語られなかったのだろうか。このようなことは結構起きているのではないだろうか。
 当時の私は、びっくりしたり、がっかりしたりしたのだが、同時に、この声が語られたことに安堵もした。たとえ遅きに失したタイミングであれ、胸の内にあることが語られないよりずっとマシだ。本当なら、この「不可能だと思う」地点から、この話し合いがスタートできたらよかったのにと思った。

 プロセスはデザインどおりに進んだが、実際には何も進んでいなかった。こうしたことを経験するなかで、プロセスをデザインするということの限界や違和感のようなものを感じ始めた。「プロセスはデザインできる」という前提によって、陥ってしまう見落としやズレのようなものがあるように思うのだ。

プロセスをデザインする

 ファシリテーションを学び始めた頃「ファシリテーターはプロセスに関わる」と教えられた。そして「プロセスをデザインする」ことを学んた。その後、古今東西の様々なプロセスの型やメソッドを知り、実験し、実践した。
 確かに、あらかじめプロセスをデザインしておくと、その時その時、どこにフォーカスして話し合っているのか、何に向かって話しているのかが明確だ。世の中には優れたファシリテーターがいて、様々なプロセスのパターンを探求し、シェアしてくれている。
 プロセスをデザインすることが当たり前になり、混乱や迷走が防げることを経験すると、すっかりそれが”正しい方法”のように思えてくる。実際、いくつもの場のプロセスをデザインし、ファシリテートしてきた。大抵はそれでうまくいく。ファシリテーションの研修でも、プロセスをデザインすることを伝えてきた。・・・とはいえ、実際にはプロセスをデザインしたからといって、そのとおりにことが運ぶわけではない。そんな事態がしばしば起きる。それは、デザインする際の準備不足だという声もあるだろう。確かに一理あるが、100%場の予測がついて為されるデザインはほぼ不可能だろう。いや、そもそも予測可能なら話し合う必要があるのか、ということにもなる。

プロセスをオーガナイズしない

 そんな中、Dayaのもとでプロセスワークを学び、ディープデモクラシー・ファシリテーションの探求を始めることとなった。
 デモクラシー(民主主義)は物事を決定していく権利が私達に平等にあることを前提としたプロセスのルールだ。とはいえ、それは数やパワーによるもので、少数派の声や言葉にされていない声が受け入れられることはとてもむずかしい。ディープデモクラシー(深層民主主義)は、そうしたあらゆる声も含めていく。言葉だけではなく、感情や夢といった言葉にならないものも大切にし、耳を傾けていこうとする。プロセスワークの根底には、そうした世界観がある。そこでの学びは、ファシリテーションに対する大きな発想の転換をもたらした。

 まず耳にしたのは、「プロセスをオーガナイズしない」という言葉だ。ある意味、これまで実践してきたことの真逆のことかもしれない言葉だ。プロセスはデザインどおりにオーガナイズするものではない。既にそこに生まれつつあるものなのだ、という。
 そうであるならば、ファシリテーターはこれから起きる「未知なもの」に開かれた心で、どんなプロセスがどこに向かおうとするのか、ひたすら目や耳やあらゆる感覚をこらしてサポートすることになる。言葉も、感情も、動きも、空気も、世界で起きる様々な出来事も。あらゆるものが、プロセスが向かおうとする方向を示唆してくれている。
 これがプロセスをオーガナイズしようとした途端、たくさんのシグナルを見落とす可能性が高くなる。実際、これまでの自分のあり方を振り返ってそうだったと思うし、今でもその傾向は強いと感じている。自分の手のうちにあるデザインされたプロセスを見れば見るほど、場に立ち現れようとしているプロセスが見えなくなる。「デザインしたプロセスを手放せ」と言われてきたことの本当の意味は、手放したところから始まる、ということだったのかもしれない。

未知なもの~まだ語られていない声に開かれる

 そんなわけで、ファシリテーターとしてのフルモデルチェンジの旅が始まった。場に現れる「未知なもの」、まだ語られていない声、本人たちですら意識にのぼっていない声が場に現れるのを促進するファシリテーションを学ぼうとしている。
 今なら、あの時すんなり進んだように見えたプロセスの奥に、どんな「未知なもの」があったのかの可能性を、少しは感じることができる気がする。一人ひとりの中にも複数の声があって、その両方を聴くことがなかったこと、組織の中に共通に存在している「できない」を許さない、空気のようなオバケがあったこと、その存在を誰も口にすることができなかったこと。そして、ファシリテーター自身の中にあった聴かれていない声の存在も・・・。(これについては、また別の投稿で書いてみたいと思う)

ファシリテーターの経験を聴き合う場を持ちたい

 こうして、私のファシリテーターとしての旅について、恥ずかしながらまとめてみた。みなさんはどんな旅をしているだろうか。ファシリテーターの胸の内や、ときどき感じる微細な違和感、失敗のようにみえる経験のふりかえりなど、具体的に語る場は以外に少ないように思える。
 そんな場にもなるであろう、ファシリテーション講座を開きたい、と昨年から地元札幌で活動を始めている。国内外で数々の場を経験しているプロセスワーカーのDayaに、札幌まで出向いてもらうことをお願いした。昨年末から既に9講座を提供してもらった。今年はあと1回、12月に2Day講座の開催を予定している。「自分の中のファシリテーターを育てる」というシリーズ名をつけている。今回のテーマは「”メタコミュニケーターの眼”を育てる」だ。
 ファシリテーターとして場に立つ人にも、様々な場面で話し合いを促進する活動をしている人にも、自分の参加する場での話し合いをなんとかしたいと悩む人にも来てほしい。未知なるものに開かれて、勇気を出して関わっていく知恵を共に分かち合えたらと思っている。(詳細は、文末のリンクからご覧ください)

2022年10月ワールドワーク合宿を終えたDayaと私

写真は、2022年10月8~10日に開催されたワールドワーク合宿を終えたDayaと私。ジェンダー・セクシュアリティを巡る様々な声を聴く~まさに未知なるものへダイブして、そのプロセスに導かれ、サーフするような時間をやり切った達成感の笑顔。3日間をとおして場をホールドしたDayaの素晴らしいファシリテーションから学ぶことはたくさんあった。同時に、自分も含めた参加者も共にファシリテートしていた、という実感もあった。場にいる一人ひとりのあり方や言葉が、場に影響を与える、全員でホールドするという体験だった。

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